付録8i:十字架と神殿

このページは、エルサレムに神殿が存在していた時にのみ守ることが可能であった神の律法を探究するシリーズの一部です。

十字架と神殿は敵ではなく、また「片方がもう片方を取り消す」二つの「段階」でもありません。神の律法は永遠です(詩篇 119:89;詩篇 119:160;マラキ書 3:6)。神殿制度――いけにえ、祭司職、清めの律法――は、その同じ永遠の律法によって与えられました。イエスの死は、一つの戒めも廃しませんでした。むしろ、それらの戒めがすでに語っていたことの真の深さを明らかにしました。神殿は、いけにえを終わらせるために破壊されたのではなく、不従順に対するさばきとして破壊されたのです(歴代誌第二 36:14-19;エレミヤ書 7:12-14;ルカの福音書 19:41-44)。私たちの務めは、十字架についての人間の考えで律法を置き換える新しい宗教を発明せず、これらの真理を共に握ることです。

一見すると矛盾するように見えるもの:子羊と祭壇

一見すると、そこには矛盾があるように見えます。

  • 一方では、神の律法がいけにえ、供え物、祭司の奉仕を命じている(レビ記 1:1-2;出エジプト記 28:1)。
  • もう一方では、イエスが「世の罪を取り除く神の子羊」として示されている(ヨハネの福音書 1:29;ヨハネの手紙一 2:2)。

多くの人は、聖書が決して下さない結論へ飛びつきます。「イエスが子羊なら、いけにえは終わり、神殿は終わり、それを命じた律法も、もはや重要ではない。」

しかし、イエスご自身がその論理を拒まれました。イエスは、律法や預言者を廃するために来たのではないと明言し、天と地が過ぎ去るまでは最も小さな一画さえ律法から失われないと言われました(マタイの福音書 5:17-19;ルカの福音書 16:17)。天と地は今もここにあります。律法は今も立っています。いけにえ、供え物、神殿に関する戒めは、イエスの唇によって取り消されたことはありません。

十字架は神殿の律法を消し去りません。十字架は、それらが本当に指し示していたものを明らかにします。

神の子羊としてのイエス — 取り消しではなく成就

ヨハネがイエスを「神の子羊」と呼んだとき(ヨハネの福音書 1:29)、それは犠牲制度の終わりを告げるものではありませんでした。信仰によってささげられてきたすべてのいけにえの真の意味を宣言していたのです。動物の血そのものに力があったのではありません(ペテロの手紙一 1:19-20)。力は、神への従順と、その血が表していたもの――真の子羊の将来の犠牲――から来ていました。神は一つのことを語っておいて、後でご自身と矛盾される方ではありません(民数記 23:19)。

初めから、赦しは常に二つのことが共に働くことで成り立ってきました。

  • 神が命じられたことへの従順(申命記 11:26-28;エゼキエル書 20:21)
  • 神ご自身が定められた清めの備え(レビ記 17:11;ヘブル人への手紙 9:22)

古代イスラエルでは、従順な者は神殿に行き、律法が求めるとおりにいけにえをささげ、真実ではあるが一時的な契約の清めを受けました。今日、従順な者は父によって、永遠の清めのために真の子羊であるイエスへ導かれます(ヨハネの福音書 6:37;ヨハネの福音書 6:39;ヨハネの福音書 6:44;ヨハネの福音書 6:65;ヨハネの福音書 17:6)。型は同じです。神は反逆する者を清められません(イザヤ書 1:11-15)。

イエスが真の子羊であるという事実は、いけにえに関する戒めを破り捨てません。むしろ、神が決して「象徴遊び」をしておられなかったことを証明します。神殿のすべては深刻であり、すべてが「現実」を指し示していました。

なぜ十字架の後もいけにえが続いたのか

もし神が、イエスが死なれた瞬間にいけにえを廃する意図だったなら、神殿はその日その場で倒れていたはずです。ところが、実際にはどうだったでしょうか。

  • 神殿の垂れ幕は裂けました(マタイの福音書 27:51)。しかし建物は立ったままで、そこでは礼拝が続けられました(使徒の働き 2:46;使徒の働き 3:1;使徒の働き 21:26)。
  • いけにえと神殿の務めは日々続きました(使徒の働き 3:1;使徒の働き 21:26)。使徒の働き全体の叙述は、機能している聖所を前提としています。
  • 祭司職も奉仕を続けました(使徒の働き 4:1;使徒の働き 6:7)。
  • 祭りもエルサレムで守られ続けました(使徒の働き 2:1;使徒の働き 20:16)。
  • 復活の後も、信者たちは神殿で見られました(使徒の働き 2:46;使徒の働き 3:1;使徒の働き 5:20-21;使徒の働き 21:26)。しかも、イエスを信じた幾千ものユダヤ人は「みな律法に熱心」でした(使徒の働き 21:20)。

律法にも、イエスの言葉にも、預言者にも、メシアが死なれた瞬間からいけにえが直ちに罪になる、あるいは無効になる、という宣言はありません。こう言う預言もありません。「わたしの子が死んだ後、あなたがたは動物を携えて来るのをやめよ。いけにえについてのわたしの律法は廃されたのだから。」

むしろ、神殿の奉仕が続いたのは、神が二枚舌ではないからです(民数記 23:19)。神は、あるものを聖なるものとして命じておきながら、御子が死なれたという理由で、こっそりそれを汚れたものとして扱われません。もし、イエスが死なれた瞬間にいけにえが反逆になったのなら、神はそれを明確に語られたはずです。神はそうされませんでした。

十字架の後も神殿奉仕が続いたことは、聖所に結びついたいかなる戒めも、神が取り消しておられなかったことを示しています。供え物、清めの儀式、祭司の務め、国としての礼拝――これらは、確立した律法が変わらず残っていたので、すべて有効であり続けました。

いけにえ制度の象徴性

いけにえ制度全体は、その設計において象徴的でした。だからといって任意であったとか、権威が弱かったという意味ではありません。神ご自身がいつか完成に至らせる現実を指し示していた、という意味です。確認される癒やしは一時的で、癒やされた者は再び病むことがありました。儀礼的な清めも一時的で、汚れは戻り得ました。罪のためのいけにえでさえ、赦しは何度も何度も求められる必要がありました。これらは罪や死の最終的な除去ではありません。神が命じられたしるしであり、神が死そのものを滅ぼされる日を指し示していました(イザヤ書 25:8;ダニエル書 12:2)。

十字架はその最終性を可能にしました。しかし、罪の真の終わりが見えるのは、最後のさばきと復活の後です。善を行った者は命の復活に、悪を行った者はさばきの復活に至ります(ヨハネの福音書 5:28-29)。その時にこそ、死は永遠にのみ込まれます。神殿の奉仕は永遠の現実を指し示す象徴であって、その現実そのものではなかったため、イエスの死はそれらを「不要」にしませんでした。神がさばきとして神殿を取り除かれるまで、それらは有効であり続けました――十字架がそれらを取り消したからではなく、象徴が指し示していた現実が、世の終わりにおける神の最終的完成をまだ待っている間に、神が象徴を断つことを選ばれたからです。

今日、赦しはどのように働くのか

いけにえに関する戒めが一度も廃されておらず、しかも神殿制度が十字架の後も続き――神ご自身が西暦70年にそれを終わらせるまで続いたのなら、当然の疑問が生じます。今日、どうすれば赦されるのでしょうか。答えは、初めから神が定められた同じ型の中にあります。赦しは、神の戒めへの従順(歴代誌第二 7:14;イザヤ書 55:7)と、神ご自身が定められた犠牲(レビ記 17:11)によって常に与えられてきました。古代イスラエルでは、従順な者がエルサレムの祭壇で儀礼的清めを受け、律法は主として血を流すことによってそれを行いました(レビ記 4:20;レビ記 4:26;レビ記 4:31;ヘブル人への手紙 9:22)。今日、従順な者は、罪を取り除く神の子羊であるメシアの犠牲によって清められます(ヨハネの福音書 1:29)。

これは律法の変更ではありません。イエスはいけにえの戒めを取り消されませんでした(マタイの福音書 5:17-19)。むしろ、神が神殿を取り除かれたとき、従順が清めに出会う「外側の場所」が変わったのです。基準は同じままです。神は、神を恐れ、その戒めを守る者を赦されます(詩篇 103:17-18;伝道者の書 12:13)。父が引き寄せない限り、だれもメシアのもとへ来ることはできません(ヨハネの福音書 6:37;ヨハネの福音書 6:39;ヨハネの福音書 6:44;ヨハネの福音書 6:65;ヨハネの福音書 17:6)。そして父が引き寄せるのは、ご自身の律法を尊ぶ者だけです(マタイの福音書 7:21;マタイの福音書 19:17;ヨハネの福音書 17:6;ルカの福音書 8:21;ルカの福音書 11:28)。

古代イスラエルでは、従順は人を祭壇へ導きました。今日、従順は人をメシアへ導きます。外側の情景は変わりましたが、原理は変わっていません。不忠実な者は、いけにえによって清められませんでした(イザヤ書 1:11-16)。そして今日も、不忠実な者はキリストの血によって清められません(ヘブル人への手紙 10:26-27)。神は常に同じ二つのことを求めてこられました。神の律法への従順と、神が定められた犠牲への服従です。

初めから、動物の血や穀物や粉の供え物が、それ自体で罪人と神の間に真の平和をもたらしたことは一度もありません。いけにえは神によって命じられましたが、和解の真の源ではありません。聖書は、雄牛ややぎの血が罪を取り除くことは不可能だと教えます(ヘブル人への手紙 10:4)。また、メシアは世界の基の据えられる前から知られていたと教えます(ペテロの手紙一 1:19-20)。エデン以来、神との平和は常に、完全で罪のない、独り子である御子を通して与えられてきました(ヨハネの福音書 1:18;ヨハネの福音書 3:16)――すべてのいけにえが指し示していたお方です(ヨハネの福音書 3:14-15;ヨハネの福音書 3:16)。物理的ないけにえは、罪の深刻さと赦しの代価を、人間が見て、触れて、感じられるようにするための物質的なしるしでした。神が神殿を取り除かれたとき、霊的現実は変わりませんでした。変わったのは物質的形です。現実は全く同じままでした。御子の犠牲こそが、違反した者と父との間に平和をもたらします(イザヤ書 53:5)。神が象徴を取り除くことを選ばれたので外側のしるしは止みましたが、内側の現実――神に従う者に御子を通して与えられる清め――は変わらず続きます(ヘブル人への手紙 5:9)。

なぜ神は神殿を破壊されたのか

もし西暦70年の神殿破壊が「いけにえを廃する」ためだったのなら、聖書はそう言うはずです。しかし、そうは言っていません。むしろ、イエスご自身が、来たる破壊の理由を説明されました。さばきです。

イエスはエルサレムのために泣き、都が自分の訪れの時を知らなかったと言われました(ルカの福音書 19:41-44)。神殿は石が一つも崩されずに残らないと警告されました(ルカの福音書 21:5-6)。神の使者に耳を傾けようとしなかったために、家は荒れ果てたままにされると宣言されました(マタイの福音書 23:37-38)。これは「いけにえが悪になる」という新しい神学の宣言ではありません。さばきという、古くからの型です。第一神殿が紀元前586年に破壊されたのと同じ理由です(歴代誌第二 36:14-19;エレミヤ書 7:12-14)。

つまり、こういうことです。

  • 神殿が倒れたのは、罪のためであって、律法が変わったからではない。
  • 祭壇が取り除かれたのは、さばきのためであって、いけにえが不敬虔になったからではない。

戒めは書かれたまま残り、いつもどおり永遠です(詩篇 119:160;マラキ書 3:6)。神が取り除かれたのは、それらの戒めを実行するための手段です。

十字架は、律法のない新宗教を正当化しなかった

今日「キリスト教」と呼ばれているものの多くは、一つの単純な嘘の上に築かれています。「イエスが死なれたから、いけにえの律法、祭り、清さの律法、神殿、祭司職はすべて廃された。十字架がそれらを置き換えたのだ。」

しかし、イエスはそんなことを一度も言われませんでした。イエスについて預言した預言者たちも、そんなことを一度も言いませんでした。むしろ、キリストは明確でした。真の弟子は、使徒や弟子たちがそうしたのと同じように、旧約聖書に与えられた父の戒めに従わなければならないのです(マタイの福音書 7:21;マタイの福音書 19:17;ヨハネの福音書 17:6;ルカの福音書 8:21;ルカの福音書 11:28)。

十字架は、だれにも次の権威を与えませんでした。

  • 神殿の律法を取り消すこと
  • 過越の代わりとして聖餐のような新しい儀式を発明すること
  • 十分の一を牧師の給料に変えてしまうこと
  • 神の清さの体系を現代の教えで置き換えること
  • 従順を任意扱いすること

イエスの死のどこにも、人間が律法を書き換える許可はありません。あるのはただ、神が罪に対しても従順に対しても真剣であることの確認だけです。

今日の姿勢:守れるものは守り、守れないものは尊ぶ

十字架と神殿は、一つの避けがたい真理において交わります。

  • 律法は手つかずのままである(マタイの福音書 5:17-19;ルカの福音書 16:17)。
  • 神殿は神によって取り除かれた(ルカの福音書 21:5-6)。

それは次を意味します。

  • 今も守ることができる戒めは、言い訳なく守らなければならない。
  • 神殿に依存する戒めは、書かれたとおりに尊ぶが、実践しない。神ご自身が祭壇と祭司職を取り除かれたからである。

神が神殿を回復されていない以上、今日、私たちは犠牲制度の「人間版」を再建しません。しかし、神がそれらを取り消しておられない以上、いけにえの律法を「廃された」と宣言もしません。

私たちは、十字架と空の神殿の丘の間に立ち、恐れとおののきをもって次を知ります。

  • イエスは、父に従う者を清める真の子羊である(ヨハネの福音書 1:29;ヨハネの福音書 6:44)。
  • 神殿の律法は、永遠の掟として書かれたまま残っている(詩篇 119:160)。
  • 今それが不可能であるのは、私たちが代用品を発明する許可ではなく、神のさばきの結果である(ルカの福音書 19:41-44;ルカの福音書 21:5-6)。

十字架と神殿を共に握る

正しい道は、両極端を退けます。

  • 「イエスがいけにえを廃した。だから律法はもう重要ではない。」ではない。
  • 「神の神殿なしに、私たちのやり方で今いけにえを再建すべきだ。」でもない。

その代わりに、こうします。

  • イエスが神の子羊であり、父がご自身の律法に従う者のために遣わされたと信じる(ヨハネの福音書 1:29;ヨハネの福音書 14:15)。
  • 神が神殿を取り除かれたのは、廃止ではなくさばきであると受け入れる(ルカの福音書 19:41-44;マタイの福音書 23:37-38)。
  • 今日、物理的に可能なあらゆる戒めに従う。
  • 神殿依存の戒めは、人間の儀式で置き換えることを拒むことによって尊ぶ。

十字架は神殿と競合しません。十字架は神殿の背後にある意味を明らかにします。そして、神が取り除かれたものを回復されるまで、私たちの務めは明確です。

  • 守れるものは守る。
  • 守れないものは尊ぶ。
  • 十字架を、イエスが「廃すためではなく成就するために来た」律法を変える口実として決して用いない(マタイの福音書 5:17-19)。



シェアしてください